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自然展に寄せて


モネと等伯・いかに自然をみるか
日野耕之祐  

 早いもので日本の自然を描く展も、今回で15回展になる。このコンクールは日本の自然をかくことで、改めてこの國の風土から生まれ育った、日本の美術の伝統、日本人が持つ美意識、真実感、そんなものを考えてみようという大きなねらいがある。ただ身近な風景を弁理的にかくという安直な話ではない。

 いま日本の美術界はすこぶる低調、冬の季節であるが、その大きな素因の一つは安易な写生画がはんらんして、かつての先輩たちが、いかに自然を鑑(かがみ)とし、自然から得た感動を大事にして絵をかいたか、画家の自然に対する謙虚な姿勢がなくなったからである。よく日本画の先輩たちは、それを実相観入といった。これを別ないいかたにすれば写生を煮つめ煮つめて、画家の胸中深く濾過して得たものをかく、自然の観入が中途半端であれば、浅い平凡な絵しかかけないということである。写真をかくというのは論外の話である。

 そこで東西二人の画家の絵をかりて自然をいかにみるべきか、とらえるべきか考えてみた。一つは晩年、水蓮の大作を多くかいたモネの水蓮の絵についてである。モネの水蓮の絵は、みなさんもみて知っていることと思うが、ぼくも最初にみたとき、ただただその筆力の逞しさ、巨人的エネルギーに圧倒され驚くばかりで、唖然としたものである。しかしそのうちになんどかみているうちに、自然に対する画家の真実感というか、モネの持つリアリティにいささか限界を感じた。もっといえば自然の光りから色彩を回復した印象派の、これは限界ということであろう。美術館の壁いっぱいに、水蓮で埋めつくしてみても、現実の水蓮の池に立って、受けた感動、肌につたわった折り折りの自然の感触、そういうものまで表現するのは、印象派的表現ではとうてい至難のわざということであろう。モネの限界はそこまでである。

 そこでつぎに長谷川等伯の「松林図屏風」をあげてみる。この絵は国宝になっているので多くの人が知っているはずである。等伯五十代半ばの文禄三、四年(1594、5年)ごろにかかれたといわれているが、ただ墨の濃淡だけで大画面に深遠なる世界をえがいている。この絵が四百年以上もまえにかかれた絵とは思えないほど、ぼくにはいつも新鮮にみえる。松林の深い空気や、毅然と立つ松の姿に等伯その人の、自然に対する、人生に対する確固とした不動の姿勢をみる。

 いささかモネの水蓮と、この絵を比較することが突飛のように思う人もいると思うが要は自然に対する画家のありようを考えてみたいと思ったからである。また美術に古い新しいということがあるのか、ぼくはまえから疑問に思っているが、西洋画にない東洋画の魅力の一つである余白の美しさを、改めて考えてみてもいいと思う。


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